一挙放送をビデオに録画しておいてチマチマ追いかけていた『電脳コイル』の放送に、ようやく追いつきました。ネット上で起こっていた祭り・議論・考察などはネタバレ防止のためにこれまでは読まないようにしていたのですが、これで同時期に楽しめるってもんだぜ!
と、思いながら観た土曜日の『電脳コイル』12話「ダイチ、発毛ス」。 なるべくネタバレにならないように論点と絡まない部分は端折りますけど、「ビデオに録画しててまだ観てない!」とか「DVD化されるのを待っているからネタバレすんな!」という御方は、今日はブラウザを閉じてもらってまた明日会いましょう(笑)
どんな内容だったのかというと…… 前半部分の下らなさも大好きなんですけど、後半部分の下らなさが最高だったので簡単に説明します。本筋だけ書き出しても面白さが伝わるとは思わないんですけど……
・体にくっ付いて寄生するタイプの無数のイリーガル(電脳生物?)が発見される → この電脳生物は強い感染力を持っていて、街中の人々に寄生してしまう。主人公達にももちろん寄生してしまう → この電脳生物に対するワクチンを開発中に翻訳機が発明され、実はこの電脳生物が人間の体上に文明を築いていることが分かる → 主人公ヤサコは翻訳機を通じて、電脳生物達にメッセージを送れることに気付く → ヤサコは自分の声によって事故を防いだことから、電脳生物達を導く楽しさにハマってしまう → 電脳生物達はヤサコの声を天の導きとして頼るようになる → 電脳生物に寄生された子ども達の間で、メッセージによって戦争を起こさないようにして文明を発展させることが流行る → どこまで文明は発展するんだろうと思った矢先に、ヤサコの体上の電脳生物達が核戦争を始めてしまう → ヤサコが「戦争をやめて」とメッセージを送っても、ヤサコを否定する哲学者や、「戦わなければ自分たちが滅ぼされてしまう」と言う電脳生物が現れる → 「争うのが不毛だと仰るのなら、ヤサコ様達は争ったりケンカをしたりはしないんですか」 → 戦争の末に築き上げた文明を失った電脳生物達は、争いのない場所を目指して旅立っていく……
敢えて僕は「下らない」という言葉でこの話を紹介したのですが、『電脳コイル』の懐の深さはこういうところだよなーと思っています。 この話、「下らない」と思う人も、「下らないと見せかけて深く考えさせる」と思う人も、「下らないと見せかけて深く考えさせるように見せかけてやっぱり下らない」と思う人も、「下らないと見せかけて深く考えさせるように見せかけてやっぱり下らないんだけど、どこか深く考えさせる」と思う人もいると思うんですよ。
それは年齢だったり、それまでの経験だったり、思想だったり。 視聴者の数だけ受け止め方があって、視聴者の数だけ「『電脳コイル』という作品の価値」が違う―――
実は、『名探偵西園寺万五郎がアニメを斬る!』さんが書かれた「らき☆すたの閉じた笑いと電脳コイルの開かれた笑い」という記事を読んで、僕はこの記事を書こうと思い当たったんですけど…… 『電脳コイル』って“知っているから面白い”と“知らなくても面白い”も、“下らない”と“深く考えさせる”も意図的に共存させているアニメのように思えます。
喩えば先週の内容で言えば、「どっかの哲学者が「ヤサコは死んだ!」って言ってきて…」という台詞があるんですけど―――これはもちろんニーチェの「神は死んだ」のパロディをすることで、現実の僕らの歴史と電脳生物の文明をシンクロさせる狙いなんでしょうが。 ニーチェのその言葉は知っているけど意味まではよく知らない僕とか、哲学を本格的に学んでいる人とか、ニーチェ自体を知らない人(作中のヤサコ達もコレに該当する)とかでは、受け取り方が違うはずなんですよね。でも、それでも良いじゃないかと作られている。
作り手の狙いの100%全部を、視聴者に押し付けたりはしない。
だからこそ、ネット上で『電脳コイル』の議論や考察や解釈が生まれてきて、それが実に心地良いんだと思います。やれ「正解は○○だ!」、やれ「その考え方は間違っている」という解答探しではなく、「キミはどう思った?」と話し合える作品………こういう楽しみ方ができる作品が、もっと増えてくれないかと願います。
だから別に僕は、女子小学生のナマ足目当てに視聴しているワケではないのですよ。
さて、ここからは先週の『電脳コイル』で僕が思ったこと。
「今回の電脳コイルを見て思い浮かんだ作品って何?」という議論って面白いですね。 僕自身は未プレイですけど、(高校時代に友達からこういうゲームがあるんだと教えてもらった)『シヴィライゼーション』が最初に思い浮かび。 主人公達が交代交代に翻訳機でメッセージを送っている様を見て、小学校時代に友達の家で4〜5人でプレイしたスーファミ版『シムシティ』を思い出しました。
当時はスーファミ発売直後、スーファミ本体を持っている人はそう多くなかったんですよ。値段が(当時の小学生にしては)高かったというのもあるし、本体の生産量自体も今より少なかったんじゃないかな。町のゲーム屋に入荷されただけで「今○○でスーファミ売っているらしいぞ!」とニュースになったくらいだし(笑)。スーファミ本体を買ったのもその友達宅の兄貴と父親なことが多かったから、そうした家族がいない日に集まって「スーファミ凄ぇえ!」と興奮したんだっけ。 当時は小4とかだから、資金を増やす裏技を使ってみんなであーだこーだ言いながら適当な街を作ったっけなぁと感慨深く思いました。
そして、発展し過ぎた街に飽きてしまい、自分達で災害を起こして街を破壊したりして(笑)………暴君ってこういうことなのかと、今振り返ると考えてしまいますね。
多分、僕が先週の『電脳コイル』の中に観たものは『シヴィライゼーション』とか『シムシティ』と言ったゲームソフトそのものではなく、そうしたゲームをプレイして“神になったような気分だった”僕らの小学生時代だったのかも。 もちろんモニターの中のゲーム画面と電脳生物は違うものなんですが(そう言えば電脳生物は生き物か?という議論はさり気なく前半部分に入っていましたね)……街を破壊してゲラゲラ笑っていた僕らに比べて、発展する人々の文明を本気で喜び、戦争に涙し、争いを止めようとしたヤサコ達は何て純粋なんだと思います。
「ゲームは教育に良くない」と言われる。 「ゲームと現実の区別が付かない子どもが育ってしまう」と言われる。
そうした意見も僕は上手く否定できません。『シムシティ』で街を破壊し、『マリオブラザーズ』で相棒を罠にハメて殺し、『ゼルダ』で罪もないニワトリをイジめて喜んできた自分の子ども時代を思い出せば……そりゃ碌な大人になれなかったしなぁとグゥの音も出ません。
でも、電脳生物達が起こした戦争に本気で涙していた『電脳コイル』の子ども達を見ると、「ゲームが必ずしも教育に良くない」とは思えませんし、「現実と同じようにゲームからも学習する」子どももいるんだと思います。
その純粋さが、腐りきったまま大人になってしまった自分には眩しく見えるんだ。
[記事URL]
テーマ:電脳コイル - ジャンル:アニメ・コミック
|