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やまなしなひび-Diary SIDE-

変わらない価値のあるもの

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続・「ゲームらしいゲーム」のゲームらしさを考える

 前回書き残したこと&その後に思いついたことを今日は書こうと思うのですが……
 その前に、世間で話題になっているこの記事の紹介から。


 「PS3時代宣言」から「PS3反撃開始」へ
 ※ その後、「PS3反撃開始」は「PS3本格始動」というコピーに変更になったそうです

 『忍之閻魔帳』さんの記事にて、6月発売の『メタルギアソリッド4』とPS3に関するコピーが「クリアしやすいゲームだと、クリアする喜びも小さい」のような比較広告であったことが話題になっていました。

 多くの人が「メタルギアソリッドこそクリアしやすいゲームじゃねえか」のようなツッコミをしていて、それに関しては初代『メタルギアソリッド』で超序盤の基地侵入すら出来ずに積んだ僕が言えることなど何もないのですが……
 それ以前にちょっと疑問が。この比較広告の対象ってWiiやDSのような任天堂陣営だろうと思うんですけど、よくよく考えてみるとおかしな話ですよね。


 「クリアしやすいゲーム」も何も、『脳トレ』も『Wii Sports』も『Wii Fit』もクリア(エンディング)の概念がないゲームなんですよ。

 どんなゲームよりもクリアが不可能なゲームを「クリアしやすいゲーム」と称するとは……?

 この比較広告は“Touch!Generations”以外のソフトを攻撃しているのかなぁとも思ったんですが、『スマブラX』や『マリオカートWii』だとすると「一部の極悪仕様で爽快感がない!」と批判されていてそんな雰囲気じゃないですよね。そもそもスネークは『スマブラX』に出てたし。
 『マリオギャラクシー』は確かにクリアだけならそんなに難しくないのでしょうが、(日本では)商業的に成功しなかったゲームへの比較広告は理解出来ませんし。『Newマリオ』は確かにクリアしやすいことが話題になっていましたが、2年以上前のソフトに対する比較広告というのも妙な気がしますし。うーん。

 一体、どこに向かって攻撃をしかけた比較広告だったのか……
 ひょっとして、このコピーを考えた人って“Touch!Generations”のソフトを1本もプレイしたことがなくて、何となく「誰でもクリアできるゲームなんだろうな」という雰囲気だけで書いたのでしょうか。
 色んな方向性があるのだから『メタルギアソリッド』を始めとするPS陣営のソフトに『脳トレ』のような道を進んで欲しくはないのですが、「『脳トレ』は「クリアしやすいゲーム」だから売れたんだ」みたいな認識だとPS陣営はまだまだ厳しいのかなと思ったりしました。物事の表層すら見れていないのかよ、と。


 単純にコピーのセンスがないだけなら良いのですが………


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 さてさて。
 でもまー確かに、2001年発売の『どうぶつの森』までは「ゲームとはクリアがあるもの」という認識が強かったと思います。その『どうぶつの森』ですら借金返済という一応の目的はありますしね。『脳トレ』や『Wii Fit』のように、自分で目標を立てなきゃならないソフトを「ゲームではない!」と思う人もいるのかなとは思います。



 要は、「ゲームらしさ」の定義が人によって違うという話。

 ちなみに、前回の記事で僕が挙げた「ゲームらしさの定義」はこんなカンジでした。

1.「ゲームオーバーor敗北」の要素がある
2.「次も遊ぼう」と思える長期的な目標がゲーム内にある
3.爽快感・達成感がある
4.何の役にも立たない

 詳しくは前回の記事を読んでもらいたいのですが……これらの条件全てが当てはまるものが「ゲームらしいゲーム」というワケではなく、どっちかというと“自分にとって納得がいく条件の”一つでも当てはまると「ゲームらしいゲーム」になるのかなと思っています。


 今日は、その記事を書いてから思いついた定義を挙げようかなと思います。



5.「非日常」への欲求を満たしてくれる
 これは前回のコメント欄にて頂いた意見です。
 単独記事にしてみようかと思ったんですが、あまりにスキがない意見すぎて面白くないなと見送っていました(笑)。

 冒険系、箱庭系なんかも分かりやすいですが、『グランツーリスモ』のようなレースゲームも「実際には乗れない車でレースがしたい!」的な欲求ですよね。「日常」では実現出来ない欲を満たすのがゲームなんだろうと。ギャルゲー・エロゲーについては言ってくれるな。

 しかし、逆に言えば……僕のように車に全く興味がない人間からしてみると、『グランツーリスモ』は魅力的に映らないのです。
 そういや『モンハン』について、「モンスターを狩るための武器・防具の材料を集めるためにモンスターを狩るゲーム」「なら、最初から狩りに行かなきゃイイんじゃね?」みたいな哲学を語っている人がいましたが―――僕にとって『グランツーリスモ』はまさにソレ。興味がない車に乗ってレースをして、興味がない車を手に入れてまたレースをするゲーム(笑)。


 この定義で言うと、「何に欲求を感じるのか」「何を日常としているのか」が人によって違うというのがミソですね。
 料理を日常的にやっている人&料理なんてしなくてイイと思っている人からは『お料理ナビ』は「ゲームらしくない」と感じられるのでしょうし、リアル犬猫を飼っている人&犬猫が嫌いな人からしてみれば『nintendogs』や『夢ねこDS』は「ゲームらしくない」のでしょう。

 同じように、日常的にゾンビを殴っている人からすれば『デッドライジング』は「ゲームらしくない」のでしょうし、アブライモビッチのようなサッカークラブのオーナーからすれば『サカつく』は「ゲームらしくない」……か?
 ゲームの「ウソ」の部分が「ゲームらしさ」なのかも知れませんね。『ゼルダ』にて、爆弾で穴が開く壁と開かない壁があることとか。そう考えると、「リアリティ(日常)」と「ゲームらしさ(非日常)」は相反するもの??


【当てはまらない例】
 ・パズルゲーム
 ・プレイヤーの日常に近いゲーム
 ・実用ソフトやWiiチャンネルは人それぞれ

 『ぷよぷよ』や『テトリス』も非日常ですが、欲求という面では「同じ色のスライムを4つ揃えて消し去りたい!」と思っている人はいないでしょうし微妙ですかね。


6.自分のプレイをコンピューターが評価(判定)してくれる
 これは何気に、今回の記事のド本命。
 僕が『脳トレ』『Wii Fit』を「ゲームらしいゲーム」だと思うのに、『DS文学全集』や『お料理ナビ』はそうは思わないのはこの違いです。評価をコンピューターに委ねるからこそ、「次こそは!」と継続出来るという。

 『スーパーマリオ』だって、マリオがクリボーに当たったかどうかを判断するのはコンピューターですからね。僕が「当たってない!当たってないって!」と主張しても、マリオは1機失ってしまうのです。TRPGのゲームマスターがコンピューターに切り替わったということを考えると、分かりやすいでしょうか。分かりにくいですよね。
 草野球で審判をコンピューターがやってくれる、みたいな。


 さて……そう考えると、「ユーザーの意見が勝敗に影響する」ものはどうでしょうか?
 『みんなで投票チャンネル』や『Miiコンテストチャンネル』は、「膨大な量のユーザーの意見を集計して発表する」行為をどう見るか次第ですかね。個人的にはこれは「コンピューターの判断」とは違うと思うので、「ゲームらしくない」かなぁ。

 でも、喩えばフィギュアスケートみたいな採点式のゲームがオンライン専用で発売されて、プレイも評価もユーザーに委ねられるようになったとして、自分がフィギュアスケートの審査員になった場合……それは「ゲームらしくない」のかというと微妙かなぁ。ユーザー参加型ゲームはこの定義だと難しそうです。


【当てはまらない例】
 ・『お料理ナビ』『DS文学全集』、Wiiチャンネルなど
 ・ユーザー参加型ゲームはグレーゾーン
 ・TRPGはどっち?


7.プレイヤーによって得られる体験が違う
 「プレイヤーによって」というよりは「プレイするたびに」の方がイイかな。

 「何を言うんだ!ほとんどのゲームは一本道じゃないか!」と思う人もいるかも知れませんが、喩えば『スーパーマリオ』であっても無事ピーチ姫を助けられた人と最初のクリボーで死んでしまった人では違う体験をしているのですよ。
 同じ一本道RPGの思い出を語っても、「あの○○ってボス強かったなー」「え?俺は別に…」ということがあるじゃないですか。

 「マルチエンディングのゲーム」という言葉がありますが、観念的な話をすればゲームとは全てマルチエンディングのメディアなんだと思うのです。まぁ……「マルチエンディング」とは、ゲームオーバーではなくゲームクリアの到達点が幾つもあるよということなんでしょうけど。

 これは6の「自分のプレイをコンピューターが評価(判定)してくれる」があってこその話で、評価・判定をコンピューターに委ねていなければそれぞれの進む道は変わりませんよね。「俺、今回クリボーにやられる~!」みたいな人はいませんし。


 逆に言えば、「どのプレイヤーでも大差がない体験になる」ものは「ゲームらしくない」と思われても仕方がないかもしれませんね。
 喩えば……『DS文学全集』は読む本こそ自分で選びますが、読み手が作品内の登場人物の行動を「俺は羅生門に登りたくない!」と選ぶことは出来ません。そこから何を受け取るかは人それぞれですが、結末は誰が読んでも一緒なんですよね。
 僕が最近ハマっているディスクシステム時代の「コマンド総当り性のアドベンチャーゲーム」なんかも、プレイヤーごとによる体験差が小さくて「ゲームらしくない」印象です(死亡フラグのないゲームは特に)。ムービーゲームと揶揄された10年前のRPGも似たようなものですかね。キャラクター育成に自由度を残していたとは思いますが。


【当てはまらない例】
 ・『お料理ナビ』『DS文学全集』、Wiiチャンネルなど
 ・一本道アドベンチャーゲーム、ムービーゲームなど

 そういや「『Wii Fit』なんかゲームじゃない!」と言っている人達は、『nintendogs』はどっちだと思っているんですかね?この「プレイヤーによって得られる体験が違う」という定義で言えば、育成ゲームなんかはまさに「ゲームらしいゲーム」ですし―――
 それを言うと、育成ゲームのような感覚で、「自分の脳を若返らせたり」「自分の体重を落としていったり」するのも大差ないとは思うんですが……


 「ゲームらしさ」の定義の問題で言えば―――
 どうやら「目的」を「ゲームらしさ(ゲームらしくなさ)」と捉えている人と、「自由度」を「ゲームらしさ(ゲームらしくなさ)」と捉えている人に分けられるんじゃないかなぁというのが僕のとりあえずの結論です。

 『脳トレ』や『Wii Fit』は「目的」はゲームらしくないけど、「自由度」は育成ゲームのそれっぽい―――だからこそ、人によって「ゲームらしくない!」「ゲームらしいじゃん!」と意見が分かれるというか。

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 僕は別に「ゲームらしくない」が貶し言葉になるとは思いませんし、「ゲームらしいゲーム」が誉め言葉になるとは思いません。でも、それが実際に貶し言葉・誉め言葉に使われているということを考えると、ソフトの本質を語るのではなく、そこに貼られた分かりやすいラベルだけを見てイイ・ワルイを語っているように思えて―――

 ちょっと、哀しい気持ちになります。



 その辺を意識してなのか、最近岩田社長は「ユーザー拡大型ソフト」という言葉を使っていますよね。
 これはつまり―――ソフトの本質は別の次元に置いといて、“今までゲームに熱中してこなかった人達”&“ゲームに飽きてきている人達”を狙った商品ということで、ターゲットによって商品をカテゴライズしているということでしょう。

 以前の記事のコメント欄に寄せられたのですが、こうした「ユーザー拡大型ソフト」と「従来型ゲームソフト」の売り場を分けるべきだという意見があります。実際、ゲームをターゲットごとのカテゴリに分けるということはそういうことですしね。
 ですが、僕はそれには反対です。消費者が求めているものを見つけやすい売り場にはするべきですが、単純に二つに分類できるというものでもないと思いますし。そもそもこうしたソフトの目的は、「ユーザー拡大型ソフト」を買った人が徐々に「従来型ゲームソフト」も買うようにしていくことだったじゃないですか。
 それを「従来型ゲームソフト」を愛好する人達から「こっちには入ってくんな」と門戸を閉じてしまうのは勿体ないですし、そういう人達が「日本では従来型ゲームが売れない」とか嘆くのはおかしな話だろうよと。



 うぅ……今回も長くなってしまいました。
 二度に渡ってこの話を書いてきましたけど、カテゴリに分けてラベルを貼る行為にさほど意味はないのかなーと最終的には思いました。興味があるかないかと、面白いと思うかどうかの方がよっぽど重要で……「ゲームらしい」「ゲームらしくない」なんて、本当はどうでもイイことなんでしょうね。

 「ゲームらしいから買おう!」「ゲームらしくないから買おう!」という人なんていないワケで、「遊び応えがありそうだ!」「自分にも楽しめそうなゲームだ!」ということの方が重要なんですよ。定義論で市場は動きませんから。


 むしろ、本当の問題は「ゲーム人口拡大は本当にみんなを幸せにするのか?」ということなのかなと思うのですが、流石に長くなったのでまたの機会にします。ではでは。

| ゲーム雑記 | 18:53 | comments:9 | trackbacks:0 | TOP↑

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