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「小説」と「アニメーション」の違い

 今年の1月から始めていたアニメ版『氷菓』の再視聴が終わったので、原作小説の<古典部>シリーズも5冊読了しました。
 んで、今更ながらに気が付きました……私にとって、「アニメ」と「原作小説」の両方を観た&読んだ作品はコレが初めてかも知れない―――と。いや、多分「アニメ」に限らず、実写の「ドラマ」とか「映画」とかでも「原作小説」まで読んだものはないんじゃないかと思います。

 それは何故か―――という話は、あまり面白い話になりそうにないから置いといて。
 自分が『氷菓』という作品で初めて“「アニメ」と「原作小説」の両方を観た&読んだ”ことで気付けたことがたくさんあって、そちらの方が面白い話になりそうだからそちらを書こうと思います。「小説」と「アニメ」は全く異なるメディアですし、「小説原作のアニメ」は「漫画原作のアニメ」とも全く異なるんだと知れたのです。



 さて、本題に入る前に……「そもそも『氷菓』って何?」って人もいらっしゃるでしょうから、そこから説明しようと思います。
 『氷菓』とは2012年4月~9月に放送された京都アニメーション制作のアニメです(公式サイト京アニサイト)。推理モノですが、殺人事件が起きてその犯人を暴くというタイプの推理モノではなく、学園生活の中で起こる謎を解決していく「日常ミステリー」というジャンルの作品です。

 原作は米澤穂信先生の<古典部>シリーズという小説です。
 <古典部>シリーズは現在までに5冊の単行本が刊行されていますが、アニメ化されたのは『氷菓』『愚者のエンドロール』『クドリャフカの順番』『遠まわりする雛』の4冊です。アニメのタイトルが『氷菓』になったのは、原作の記念すべき1冊目のタイトルですし、“古典部の文集”という重要アイテムの名前だからです。

 原作4冊がどうアニメ化されたかというと、こんなカンジ。

◇『氷菓』→古典部の文集「氷菓」と、千反田えるの叔父に関する謎に迫る話。アニメ版では1~5話に相当。
◇『愚者のエンドロール』→2年F組の自主制作映画にまつわる謎に迫る話。アニメ版では8~11話に相当。
◇『クドリャフカの順番』→文化祭3日間の出来事と、そこで起こった十文字事件の真相に迫る群像劇。アニメ版では12~17話に相当。
◇『遠まわりする雛』→元々は別々に発表された短編を時系列順に並び変えることでキャラクター同士の関係性の変化を描く短編集。アニメ版では1話のBパート、6話、7話、19話、20話、21話、22話に相当。


 アニメ版ではストーリー上かなり重要だと思われた第18話「連峰は晴れているか」は単行本未収録の短編なので、原作は確認できず。また、コミックス限定版に同梱されたOVA「持つべきものは」はアニメオリジナルエピソードです。


○ 「アニメ」と「小説」、どちらが「分かりやすい」?
 以前にも書いたことがある話なのですが、中学時代に私の“人生観”というか“世界観”を変えたクラスメイトの一言がありました。娯楽を楽しむには「能力」と「労力」が必要だという話。

 「俺は頭が悪いから小説を読んでも面白くないんだよ」

 こういうことを言うのは本を読まない彼に限ったことではなく……「小説」などの「活字の本」は、頭を使わないと読めなくて、頭が悪い人には楽しめないんだみたいな言説は、活字の本を読む“頭の良い人達”からもよく出てきます。「若者の活字離れが深刻だ」とか、「最近の若者は漫画しか読まないから心配だ」とか、「読書こそが想像力を養ううんぬんかんぬん」とか。

 「文章」から、「その空間」「そこにいる人物」「そこで起こっている出来事」を正確に想像するのは確かに大変です。能力が必要だと言うのも分かります。
 かくいう私だって、今回『愚者のエンドロール』を読んで「2年F組が作った下手くそな映画」を「文章」だけで正確に想像するのはムリだなと思いましたもの。映像的なトリックや、空間的なトリックは、「アニメ」の方が遥かに分かりやすいですもの。頭が悪くて申し訳ない。



 ただ……じゃあ、「アニメ」は「小説」の上位互換かというと全然そんなことはなくて、「小説」の方が遥かに分かりやすいシーンも多いんですよね。

 例えば、

 そんなことを言われて俺は少し悲しかった。

という小説の地の文があったとします。これを読めば、(日本語が読める人ならば)百人が百人「主人公は少し悲しかったんだな」と分かると思います。私の中学時代のクラスメイトが自称したような“頭が悪い”人であっても。

 しかし、これを「アニメ」とか「映画」で表現する場合……どうしましょう。
 主人公に「そんなことを言われたら少し悲しいじゃないか」なんて台詞で言わせるワケにはいきませんよね。台詞で説明せずに主人公の「少し悲しい」という感情を表現するためには、主人公の表情だったり、カメラワークだったり、画面の構図だったりで「少し悲しい」を伝えなければいけません。
 そこが演出の腕の見せ所ではあるのですが、映像だけでは全ての人に「主人公は少し悲しかったんだな」とは分かってもらえないのです。自分はブログでアニメの解説記事なんかをよく書きますけど、まーしょっちゅう「たかがアニメにそんな意味なんかあるワケがない」「テキトーに作ってるだけなのに信者が超解釈してくれるからアニメって楽だよな」なんてコメントが付きますもの。

 映像が何を表現しているかを、みんながみんな読み取れるワケではないんです。


 だから、特に一人称の小説なんかは顕著だと思いますが、登場人物の心理は「アニメ」よりも「原作小説」の方が遥かに分かりやすいです。
 『クドリャフカの順番』の終盤でどうして摩耶花が泣いたのかは、(アニメ版でも分からなくはないけど)「原作小説」の方が分かりやすかったと思いますし。千反田さんの物語も、里志の物語も、「原作小説」の方が心にグッとくるものがありました。

 「小説」は頭の良い人しか楽しめなくなくて、「アニメ」は頭が悪い人でも楽しめる―――なんてことは全然ないです。「アニメ」は「アニメ」で読み取る能力と労力が必要なんです。



 当然、こんな記事を書いている私だって必ずしも「映像が表現しているもの」を正確に受け取れているワケではありません。
 アニメ版の「氷菓編」のラストを観て「主人公はこう思っているんだろうな」と考えていたことと、原作小説の『氷菓』を読んで「主人公はこう思っていたのか」ということが、ものの見事に正反対でした。詳しく書くとネタバレになるから書きませんけど、「否定」と「肯定」くらい正反対でした。

 「あれ?原作ってこうなんだ!?アニメ版だと改変したのかな……」と思ってもう一度見直しても、割と原作に忠実な演出になっていて、どうして正反対の解釈をしたのか自分でも分からないくらいで。つまり、それくらい「アニメ」を作り手の思惑通りに解釈するのは難しいんだよと思いますし、「小説」と「アニメ」は全く別のメディアだと思うのです。



○ 数冊の「小説」を、一まとめの「アニメ」に構成すること
 これは「原作小説」でも様々なパターンがあって、「1巻、2巻、3巻……」と続くケースはまた別だと思うのですが、この<古典部シリーズ>のように『氷菓』『愚者のエンドロール』『クドリャフカの順番』『遠まわりする雛』とそれぞれに別々のタイトルが付いている小説は“どの1冊から読んでも大丈夫”なように独立した話になっているのが普通です。

 もちろん出来事は繋がっているので、『クドリャフカの順番』の中で「氷菓事件」「女帝事件」と言った過去作の出来事が言及されることはあるのですが……「氷菓事件」の真相や「女帝事件」の真相が、『クドリャフカの順番』から読み始めた人にネタバレしちゃうみたいなことはないようになっています。


 だからなんだ……と思われたかも知れませんが、これがアニメ化の際には重要な話で。
 小説というのは本来「1冊」「1冊」で独立しているものであって、アニメ化する際に「じゃあ4冊分を全24話でまとめましょう」とした場合、1本のアニメとしてはまとまりが悪くなってしまうことがあるんですよね。
 具体名は出しませんけど、ライトノベルのアニメ化だと「最初の数話は超面白かったのに、その後はグダグダ」ってものもあって、ああいうのって恐らく「原作小説1冊目」と「原作小説2冊目以降」の差なんだよなぁと思ったりもします。


 『氷菓』のアニメの場合、原作を読んでみて「なるほど」と思ったことなんですけど……
 原作4冊目の『遠まわりする雛』は短編集ということで、1学期の初め、1学期、夏休み、2学期、冬休み、3学期、春休みに起こった別々の事件を収録しているのですね。別々に起こった事件を時系列順に並べることでキャラクター同士の関係性の変化を描く意図があったようで。これはまぁ、言ってしまえば「折木奉太郎」と「千反田える」の関係性が1年でどう変わったのかを描いているとも言えて(※1)

(※1:アニメを先に観た時には「1話Bパート」の伏線が「21話」で消化されることに「何事……?」と思ったのですけど、アレは原作だと『遠まわりする雛』という1冊の中での話で、見事に“対比された二つの事件”だったんですね。)


 アニメ版はこれに準拠して、原作4冊分の出来事を時間軸通りに並べているだけのように見えるのですが、アニメ全体として“「折木奉太郎」と「千反田える」の関係性が1年でどう変わったのか”という軸をつけて描き直したように思えます。
 分かりやすい例を挙げると、第18話の「連峰は晴れているか」を経た後、千反田さんが折木のことを異性として意識しているシーンがアニメ版では付け足されているとことか。ところどころに「でも他者との関係だって悪くない」と思わせるシーンが追加されていたり。


 別々の4冊の「小説」を、一まとめの「アニメ」として描き直すにあたって……『遠まわりする雛』に収録されているエピソードを要所に挟むことで、上手く構成し直しているなぁと思いました。これは、原作者自ら「構成協力」として参加しているということも大きいのかなと。
 あとまぁ……「バラバラの順番に発表された原作」を「時系列順に並び替えてアニメ化する」ということを京都アニメーションがやるということ自体が何かのメタファーな気もしますけど、気にしすぎな気もします(笑)。


 そういう意味でも、今回初めて「アニメ」→「原作小説」の順で観たことは“二度楽しめる”良い経験をだったと思いますし、『氷菓』という作品は良いサンプルだったと思いますし、今後も「アニメ」→「原作小説」の順で作品を楽しむというのはどんどんやっていきたいと思いました。


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○ 余談:「アニメ」の後に「原作」を読むもう一つのメリット
 自分は以前から「アニメ」の後に「原作」を読むのは面白いよという提唱を続けていて。今回自分が体験した『氷菓』のように「アニメ→原作小説」の順だと、アニメでは表現されていない部分も分かるし、原作をどう構成し直すかにも面白さがあるんだよということをこの記事で書いてきたのですが。

 もっと分かりやすいメリットとしては……
 「アニメの後の話」を原作で読むことが出来るというものがあるんですよね。


 『氷菓』の場合、原作のストックが1冊しかないので「アニメの2期は可能性薄いかなー」と思ったので、まだアニメ化されていない原作5冊目『ふたりの距離の概算』も読むことにしました。
 『ふたりの距離の概算』は2010年に単行本化されているので、2012年に放送されたアニメにねじ込むことも出来たとは思うんですが……アニメはアニメとして「高校1年の1年間」を描き、「折木奉太郎と千反田えるの二人の関係性の変化」を軸にしたストーリーにするために、原作4冊目『遠まわりする雛』までをアニメ化したのはイイ区切りだったと思います。

 『ふたりの距離の概算』は、“その後”の物語。
 高校2年生になった折木奉太郎と、古典部と、神山高校の物語です。

 原作を読んでいなかった私の中では2012年9月のアニメ最終回以降、<古典部>の世界はあの最終回のまま時間が止まっていました。高校1年最後の春休み、狂い咲きの桜が舞う季節、あの美しい映像のままずっと時間が止まっていました。1年半の間ずっと。
 しかし、彼らの物語はそこで幕を閉じるのではなく、その後も彼らの青春は続くのです。アニメ最終回の後、折木は何を思ったのか、里志と摩耶花の関係はどうなったのか、新入生が入ってくる季節で古典部は何をするのか―――原作ではちゃんと“その後”が描かれているのです。


 「アニメ」が終わって寂しいのなら「原作」でその続きを読もうぜ!というのは、この作品に限らず私が「アニメ」の後に「原作」を読むことを勧める理由の一つでもあります。
 ただ、まぁ……「原作」の方も続刊がちっとも出ないというまた別のもどかしさも生まれるんですけど(笑)。

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| アニメ雑記 | 17:48 | comments:5 | trackbacks:0 | TOP↑

COMMENT

どうしても映像は叙事に
テキストは叙情に強いですからね。
これはシステム上、どうしようもない。
でも、だからこそ小説ではいかに情景を想像させるかが作家の腕の見せ所ですし、アニメでは心理描写に心血を注ぐ演出も目立ちますよね。
不得意分野だからこそ逆に力が入るという部分もあるように思います。

| 児斗玉文章 | 2014/06/04 19:05 | URL |

確か、やまなしさんは原作→アニメで見るのは嫌っていたと記憶してるんですが、逆にアニメが原作でその後ノベライズやコミカライズされた作品の場合、どういう順番だと楽しめる(どういう順番で楽しみたい)のか気になります。
とはいえこの手のは数が少なく経験しづらいケースではありますが・・・

| あわれ | 2014/06/05 03:04 | URL | ≫ EDIT

>あわれさん

>逆にアニメが原作でその後ノベライズやコミカライズされた作品の場合、どういう順番だと楽しめる(どういう順番で楽しみたい)のか

 「アニメ→コミカライズ」のケースも、「アニメ→ノベライズ」のケースも経験ありますけど……同じ話を描かれたものはやはり「原作(アニメ)」と比較して漫画や小説はイマイチだなと思ってしまいますね。
 でも、そうした作品には「アニメとは違うエピソード」とか「アニメでは描かれなかったエピソード」を描いてくれることが多くて、そういうのは楽しいです。

| やまなしレイ(管理人) | 2014/06/05 19:10 | URL | ≫ EDIT

なるほど。お返事ありがとうございます。
さすがにアニメ原作の作品で、コミカライズ・ノベライズされたのを先に見たことは無い感じですか。

| あわれ | 2014/06/06 15:25 | URL | ≫ EDIT

>あわれさん

>さすがにアニメ原作の作品で、コミカライズ・ノベライズされたのを先に見たことは無い感じですか。

あー、『舞-HiME』は条件に合うかな。
元々アニメ知らないでコミカライズ版だけを読んでてハマって、後から原作のアニメをバンダイチャンネルで課金して全話観て、どちらも面白かったです。アニメの最終回だけは許せなかったけど。
ただ、アレは設定からして「別物」にしてあるメディアミックスだから微妙ですかね……

ちなみに続編の『舞-乙HiME』はアニメもコミカライズもリアルタイムで観ていたため、完結がアニメ→コミカライズ版の順になっていたせいかコミカライズ版はあまりハマれなかった記憶があります。

| やまなしレイ(管理人) | 2014/06/06 21:17 | URL | ≫ EDIT















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